志賀 |
お久しぶりです。今日はよろしくお願いいたします。 |
清水 |
ご無沙汰しております。こちらこそよろしくお願いいたします。 |
志賀 |
私どもが運営しているイプラスジムには、いろいろな会員さんが来られ、さまざまなトレーニングをしていますが、常々みなさんに一度は内観を体験していただきたいなと思っているんです。そこで、今日は内観についていろいろ伺いたくてやって参りました。 |
清水 |
はい、分かりました。 |
志賀 |
まず、内観の歴史や目的、あるいは、内観とはどういうものかをお話いただけるでしょうか。 |
清水 |
はい。我々の行っている内観法は、奈良県大和郡山市に内観寺を作られた「吉本伊信」が創始者です。吉本伊信先生が「身調べ」という断食・断眠・断水でおこなう過酷な修行の末に、自分ほどの愚か者はいない、世界中のどんな極悪人どんな罪悪を犯した方が救われる道があったとしても、自分だけは地獄行きであると悟った瞬間に、抑え切れないほどの喜びが吹き上がる境地に達したそうなんです。この喜びは人間であれば、誰もが感じられる喜びであり、それを世界中の方に広めたいというのが、内観法を作る基になったんですね。しかし、過酷な行を世界中の方にやっていただくことは無理ですから、宗教色を取り除き、どういった状況、年齢、お立場、体の具合など、どのような状態の方でもできるように形を整えた現在の内観法を20年ぐらいかけて開発されたといわれています。 |
志賀 |
そうですか。 |
清水 |
吉本伊信先生は、社会において最も苦しんでいる方が救われる方法でなければ、世界中の人を救うことができないと、教誨師(矯正施設で収容者・受刑者の精神的救済活動をする人)になって、単身で刑務所に行かれたんですね。社会において底辺で苦しんでいる方に救いをもたらしたいと行動されたんです。また、当時、うつるからと誰も近寄らないライ病患者の隔離病棟にもお一人で行き、そこで苦しんでいる方々に内観を紹介したそうです。苦しんでいる人が救われることが世界を救うことを確信して精力的に活動されました。 |
志賀 |
なるほど。内観は、病に苦しむ、窮地に陥って苦しい状態であっても、その苦しみを克服できる、そういうことを目指しているのか、それとも、病そのもの、苦しみそのものを変えることに目的があるのでしょうか。 |
清水 |
それは、はっきりと明言されておりまして、あらゆる環境、逆境の中においても、喜びが溢れる境地に到達することが内観の目標です。病であれば病のまま、その人生が嬉しいという心の持ち方を目指しています、 |
志賀 |
喜びを感じると言うのは主観ですから、あらゆる境遇や状況でも喜びを感じることができるようになるのなら、究極のメンタルトレーニングと言えそうですね。 |
清水 |
喜んで生きる。貧しくても、貧しさに苦しまない。これは貧しいから嬉しいということではなくて、貧しい中でも嬉しさがあるというのが内観で得られる境地だと思います。 |
志賀 |
こちら栃木県さくら市喜連川の「瞑想の森内観研修所」はどういったいきさつでつくられたのでしょうか? |
清水 |
先代の「柳田鶴声(やなぎだかくせい)」が瞑想の森を昭和56年に創設しました。柳田先生は、上場企業の社長から転身した方ですが、今から40年近く前に、自己投資としてあらゆる企業研修を体験したそうです。その専務時代にたくさんの研修をやっても解決できない問題があり、模索する中で内観法に出会い、ご自身が体験され、感銘を受けたそうなんです。その後、社長になられ、50歳のときに身を引いて、その会社の所有のこの土地を退職金代わり入手し、私費を投入して、この研修所を創設されました。柳田先生の目的は、吉本先生と同じですが、「瞑想の森」という名称に柳田先生独特の哲学、理念が込められています。各地の神社仏閣が観光地化して、本当の意味での精神修行の場所、魂を磨くための修練所の数が減ってきていると感じておられたようです。そこで、本当の意味で自分を鍛え上げるところ、自分を見つめると場所としての「瞑想の森」を日本中に展開していく1つのサンプルとして、この研修所を開かれました。 |
志賀 |
そうですか。柳田先生の構想を清水先生が受け継がれて活動されていますが、そもそもご自身が内観と出会われたきっかけは何だったのでしょうか。 |
清水 |
私がここに妻と二人で柳田先生に弟子入りしたのが27歳のときなんです。 |
志賀 |
えぇ! ずいぶん若いときから関わっておられたんですね。 |
清水 |
周囲のみんなにも同じように驚かれました。当時も「なぜ」と聞かれたんですが、今思うと強い目的でスタートしているというよりは、自然の流れという感じですね。内観法を知ったのは、私が子どものころに父がこちらでお世話になったときで、私自身初めて内観をしたのが18歳のときです。まさかこんな長い間内観に関わるとは思っていませんでした。直接のきっかけは、26歳のときに、13年付き合っていた親友を亡くしたことだと思います。そのとき、自分はこのままでいいのだろうかといろいろ考えました。こういう生き方でいいのだろうかとすごく悩みました。その当時は予備校の講師をして、生徒に教えながら、国家試験を受けて自分の社会的な立場がほしいと漠然とした人生の歩み方をしていたんです。そのときに自分にとって大切な友人を失い、かなり苦しみ、半年ぐらい悩んだ後、柳田先生にお手伝いできないかと相談したんです。内観を広めたい、吉本伊信先生の魂を受け継ぎたいということよりも、柳田先生が必要としてくださる期間だけここで働きたいというのがスタートだったんです。今思うと自分のためにやっていたようなものでしたね。5年ほど柳田先生とご一緒させていただいて、先生が亡くなってから8年になりますから、もう亡くなってからの方が長いですね。去年40歳になりましたけれども、ようやく自分がなぜ今も続けているのかという1つの答えが自分の中で感じられます。初めは自分が欲しいもの、求めているものがあり、それを得るためにここに来たわけですけれども、図らずもここで長く過ごし、柳田先生の下で吸収してきたもの、自分が恩を受けた方々の思いを、自分を媒体として、今度は人様へ受け渡しするという |
志賀 |
大きな夢を持ち、その夢の実現を目指して努力せよ!とよく言われますが、実際に大をなした人の多くは、実は成り行きと言うか、自然の流れだと言いますよね。だた、そのプロセスにおいて人生を見つめる真剣さがある。誠実に生きてきた結果なのだ、と言うことでしょうか。ところで、恩を返すと言う思いで活動を続けている中で、やはり夢が膨らんでくる、大きな目標も構想されるのではないかと思いますが、そのあたりを少しお聞かせいただけますか。 |
清水 |
内観法というのは、吉本先生が創られた当初から、世界中の人々が、今ある自分で喜んで生きていける境地に到達していただきたいという大きな目的があります。その思いを発展させ、柳田先生が目指された瞑想の森運動に出来る限り貢献していきたいと思っています。柳田先生は、「我々がしていることは、200年後の教科書に載ることなのです」とおっしゃっていました。ですので、今やっていることをそのまま続けていくということが第一です。私は柳田先生と出会ったことが大きな転機になりました。良質の人に出会うことが自分の人生を豊かにしていきます。しかし同時に、自分が相手にとって良質の出会いの人になれているのかを常に自分に問いかけ、出会いを大切に行動することが今の個人的な目標です。 |
志賀 |
内観を1週間することによって、得られた成果や実例を紹介していただけますか? |
清水 |
悩みというものは、全て自分で作っていますから、悩みを解決するのは自分しかないんですね。悩みの種類は人の数だけあります。社会問題になっているようなケース。例えば、ニート、夫婦間の問題、学校問題などですね。ニートであれば、会社経営側、本人。学校であれば、教員、生徒、父兄。また、病気でお悩みの方、介護、ケアする側の悩みといろいろな立場があり、こちらにはどのケースの方も来られています。最近の例でいえば、離婚の危機を抱えておられたご夫婦が内観されたんですが、そのご夫婦の大きな溝が出来た原因のひとつに長年子どもができないプレッシャーがあったそうなんですね。周りからの期待やご本人たちのすれ違いから、思いやりを持てない関係になってしまったんです。内観でお互いが、自分のことや相手のことが見え、夫婦仲を修復されていきました。先日3回目の内観にご夫婦で来られたんですが、赤ちゃんができたとご報告いただいたんです。生まれたらしばらくは内観に来られなくなるということで、ご夫婦で揃って内観をされたんですが、ものすごく嬉しかったですね。内観すると必ず赤ちゃんができるというわけではないですが、心と体のバランスが整い、よい結果が生まれた例ですね。別の例ですが、お店を引き継いだ40歳代の3代目店主が、不景気でお店の経営が傾き、やる気を失いふて腐れてお酒を飲んでニート状態だったそうなんです。その間奥様が一人で、お店を切り盛りされていたんですが、この店主が内観をされた後、帰ってすぐ会社に就職されたと奥様から連絡がありました。 |
志賀 |
1週間の内観をすることで人間関係がよくなったり、やる気が湧き上がるんですね。 |
清水 |
そうです。自分が生かされているということを感じられますから、そこから、やらなきゃならないではなく、やりたいに変わるんですね。自分の存在を感じたときにそういう気持ちが芽生えるようですね。 |
志賀 |
ニートの人が自ら来てくれるといいですけれど、閉じこもっているでしょうから、なかなか難しいですね。こちらへは、周りの人に薦めて来るのでしょうか? |
清水 |
そうですね。ニートの方々は、厳しい条件を突きつけられると弱いので、周りに脅されながら来られる人もいます。本人もニートである状況が、人生を謳歌しているという気持ちはないようですので、信頼できる方の説得などがきっかけになるようです。 |
志賀 |
今まで大勢の内観者を受け入れて来られて、どんな人に内観を受けてもらうといいと思われますか。 |
清水 |
基本的にはどなたでも、その状況で自分というものを感じられるのでお勧めしたいです。あえて申し上げるならば、人に影響力のある人が内観をするとすごくいいですね。会社でいえばトップ、学校でいうと教師の方です。いじめられっこが内観をして救われるのは1つの道ですが、その教室をまとめている先生が内観すると教室全体の雰囲気が変わります。家族でいえば、親が内観するといいんですね。親が子どもに与える影響というのは、大きいですからね。問題を起こす子どもだけ内観に行かせることがありますが、親が変わらないと問題解決にならないんですね。問題を起こした子どもが内観して、改心して帰ってきても、そういう子に育てた親が変わらなければまた同じ状況に戻ることがあります。そういう意味では影響力の強い人が内観をすると非常によい効果がでますね。 |
志賀 |
なるほど。問題を起こしている人に内観をしてもらうのは対症療法のようなもので、その大元である原因療法が大切だと言うわけですね。 |
清水 |
影響の強い人は、皮肉にも人に及ぼす影響をご自身ではあまり分かっていないんですね。ですから悪気がないんです。悪気があれば、直しなさいで済むんですけれど・・・ こういうことは、自分で気づくということがすごく大事なんですね。自分は正しいと思い込んでいる人が内観すると非常に効果があります。悟りというのは間違いに気づくことだと私は思っています。自分自身を見つめると自分が間違っていたということに気がつくんですね。それに気がつかないと悟りから遠く、目が眩んでいる状態ですから、非常に苦しいんですよ。そこに気がついてもらいたいですね。 |
志賀 |
悩みを解決する方法には、内観の他にもいろいろとありますよね。カウンセリングなどの西洋的な手法と、内観のような東洋的な手法にどんな違いを感じますか。 |
清水 |
方法論としての違いはよくわからないんですが、大きく分けて内面に問いかけていくのが東洋的で、外に原因を求めて外側を改善し自分に合わせていくのが西洋的というように感じます。内観というのは、目的が、周りがどういう状況であっても、自分が心安らかになるために、自分の心と対話するということですから、あらゆる問題は、それぞれの方が自分の立場で悩んでいらっしゃるので、ご自身の力で解決ができ、その喜びを得られるというものなんですね。 |
志賀 |
人は相談されるとアドバイスしたくなりますが、自分の心との対話という面でみると、外からいろいろアドバイスやコメントが無い方がいい。そういう意味では内観というのは一番それに沿っているのではないかと思いますね。内観は、語りかけも、会話もなく、内観者が自ら報告することで気づく手法ですよね。 |
清水 |
そうですね。カウンセリングと内観の違いは、治療者と患者という関係が内観にはないことですね。面接者がもともと内観者ですから、同じ行をおこなう、同じ道を歩む人間として、話をお聞きするという姿勢ですので、指導するというのではないですね。私もこの仕事を始めた頃は、ついついアドバイスしたくなるんです。そこまで感じているなら、もう一歩踏み込むとすごく楽になるのにと思うことが何度もありました。柳田先生に、もう少し後押ししてあげたらと相談しましたら、「とにかく黙って聞いていればいいんですよ」と言われました。私も20代でしたから、意地を張って「それなら絶対言うもんか」と思いましたね(笑)。 |
志賀 |
(笑)。仏像のように無口を貫くわけですね。すごい修行ですね。 |
清水 |
のど元まで言葉が出かかるんですが、2年間一言もアドバイスせずにひたすら聞き続けました。そうやって黙って聞くことで、その方が内観の本質に触れる近道だということが実感できました。そのままでいい、その方がその悩みを持っておられて、悩んでおられるその姿がそのものが尊いということなんです。認められている自分の人生、命、生き方、考え方、ありのままでいい。その上で自分が選んだこともそれでいい。夫婦仲が悪くて来られた場合、夫婦仲が良くなるのが答えだと思われますが、別れるのも1つの道です。別れるときにそれぞれの夫婦、1人1人がこの人生でよかったと思えるような人生を過ごしていければそれでいいんです。 |
志賀 |
なるほど、菩薩の心ですね。内観の本質が掴めた気がします。1週間の集中内観をしますと、医学的には治る見込みがない方が内観によって治ったという話をよく聞きます。今までのお話を聞くと、病を抱えていても、共存して過ごしていけることを実感すると、結果として病気が治ってしまうんでしょうね。臨床の立場からも注目され、日本内観学会では、お医者さんたちが集まり、心理療法という治療の1方法として内観を位置づけておられますよね。心配なのは、お医者さんの治してあげるという立場から内観を使うと、本来の内観的な考え方とずれるのではないかなと思うのですが・・・ |
清水 |
そうですね。臨床的にみると成果は数多く報告されていますから、日本内観学会でもお医者さんやカウンセラーさんなど、心理学と精神医学の先生方が多くいらっしゃいます。病気になる前の自分に戻る、病気の状態がなくなることで満足するというのと、病気のままでいい、ありのままの自分を受け止めるというのは、全く違いますよね。内観をして喜んで生きられるようになったことが、結果として精神科の薬を必要としなくなることはよくあります。それ自体は大変すばらしいことですが、あくまでもそれは内観による副次的な成果で、内観の一側面です。病気であっても、薬を服用する日々であっても、喜んで生きられることが内観の目標なんです。お医者さんの立場としては、内観を療法としようとすると、厚生労働省に認められないといけない。そのためには、病気が治ったという方法論でないといけないという立場にあるんだと思うんです。内観を療法として運営していくということは、内観法を広める上でとても意味のあることですけれども、病気が治ることが内観であるという図式にとらわれると、本来の内観の目指すものとはどうしても違ってきてしまいますね。 |
志賀 |
なるほど、今後、どのように内観をアピールしていくかが難しいですね。 |
清水 |
影響の強い人は、皮肉にも人に及ぼす影響をご自身ではあまり分かっていないんですね。ですから悪気がないんです。悪気があれば、直しなさいで済むんですけれど・・・ こういうことは、自分で気づくということがすごく大事なんですね。自分は正しいと思い込んでいる人が内観すると非常に効果があります。悟りというのは間違いに気づくことだと私は思っています。自分自身を見つめると自分が間違っていたということに気がつくんですね。それに気がつかないと悟りから遠く、目が眩んでいる状態ですから、非常に苦しいんですよ。そこに気がついてもらいたいですね。 |